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乗西寺 寺報

2016年春 第57号
つなぐ


始まりはつつましい暮らし
お寺の映画会で、小津安二郎監督、原節子主演の『晩春』を観ました。
昨年の9月5日に肺炎で享年95歳にしてなくなった昭和の大女優原節子。
若い人にはピンとこないかもしれません。
それもそのはず、昭和37年(1962)年に銀幕を引退。
以来50年以上は表舞台に登場することがなく、伝説の大スターになっていたのですから。
映画の内容は北鎌倉の静かな住宅地に住む父と娘の物語。
父親(笠智衆)は娘(原節子)が婚期を逸しかけていることが心配で、しきりと見合いを勧めるが、
娘は自分が結婚したら父は一人でくらしてゆけるのだろうかと心配してなかなか承知しない。
そこで父親はある嘘をいう

名古屋乗西寺の時報57号写真
その嘘は娘を結婚させるために、父親自身が再婚するかもしれないということです。
戦後4年目、昭和24(1949)年の作品。
敗戦に続く混乱を少し乗り越えようとしている時代が描かれます。
当時の人々の生活が垣間見えて興味深い。
つつましい暮らし、茶会と能、鎌倉と京都、平和な中で秩序と伝統を回復していく姿を見せてくます。
相手への遠慮とこころづかいの人間関係には改めて感じいってしまいました。
結婚や飲酒など自分を少し主張する女性の姿や
私の好きなショートケーキが登場しているのはちょっと驚きでした。 映画『晩春』に出てくる俳優はほとんど故人になり、この国は変わり、
私たちの生活も変化し続けています。
人生50年から80、90年と長生きが当たり前になっていますが、私たちは必ず死にます。
仏教は老いて死んでゆく「死の民主主義」をどう生きてゆくのかを問い続け待てきました。
「年をとるというのは初めて経験することばかりです」
月参りの席であるご門徒さんの一言です。彼女は有料介護施設での一人暮らし。
80代になっても、はっきり物を言い積極的にいろいろなことに向かっていかれる。 絵を描いたり、歌を習ったり・・・
それは体を痛め害しても変わりません。 彼女自身は人一倍健康に気をつけて見えても、このところ病院通いが続きました。
そのことに関して、私が言った「たいへんですね」に応じておっしゃったのです。

どのように老い、どのように終えるかは、人それぞれでで違います。
最近、よく「終活」「エンディングノート」など、老いを感じた時には自分で死ぬ準備をしなさいと言われるようになりました。
それは私には、ご門徒さんが言う常套句「家族や残された人に迷惑をかけたくない」の裏返しのように思われてなりません。
私たちの老いや死への不安な思いを言葉を記述することによって、誤魔化してしまうのではありませんか。
そういえば『おひとりさまの老婆』を書き、介護の問題に詳しい社会学者の上野千鶴子さんが
「自宅で死にたいと願うお年寄りに対して、実は一番の抵抗勢力が家族なんです」と語って見えます。
家族という近くにいて信頼すべき人が介護の難しさから「どこかへいってほしい」という思いをいだいてします。
苦しみ悩みながら、私たちは当事者は何を選ぶのかが大きな問題です。それこそが人としての生き方なのです。

名古屋乗西寺の時報57号写真
さて、親鸞聖人はどう言われるでしょうか。
「久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、
いまだうまれざる安養(あんにょう)の浄土はこいしからず」
『歎異抄』第9章

ずうっと昔から人間が生まれしんできた、苦しみ迷いだらけのこの世を私にとっては捨てることができません。
かえってまだ住ったこない浄土は少しも恋しくはありません、と。聖人でさえも、いや親鸞であるからこそ、
率直に正直に述べられています。不安のままここに立つ。

「あとがき」
壱番屋の廃棄カツ横流し事件は二人の悪いおじいさんばかり責められていますが、
捨てた方の食品メーカーもどうかなぁ。その数の多さに驚くとともに、私もやすくておいしい物を求めている現実です。
廃棄されるはずのカツをスーパーで見つけたのは、壱番屋の女性のパート従業員だったという。これだけは何かほっとします。