名古屋乗西寺外観

歴史

乗西寺初代は三河幡豆郡善命村、村の領主小笠原広蕃頭。
小笠原広蕃頭は出家し、山科の蓮如を訪ね、弟子となり竜玄と号した。
文明十一年(1479年)善命村に戻り一寺を建立、乗西寺と名付けた。

現在の本尊、阿弥陀如来は家康の陣中の守り本尊だったとされ
関ヶ原の合戦時に勝利をおさめ、岡崎城への帰途、同寺にあずけたものと伝わる。
安阿弥様であるこのご本尊、
「凱旋の本尊」、「満足の本尊」などとも呼ばれている。
同じ頃、島津公の書いた“満足の御陰”と呼ばれる家康の絵像が以前には寺にあったとされている。

寛文六年(1666年)七世浄玄のとき、名古屋開府に伴い、寺を針屋町(現在の中区錦三丁目辺り)に移した。
十二代源恵は俳人であり、尾張俳壇の重鎮だったとされている、号は虎足庵 秀円 岳輅。
国学は本居宣長の門下、俳壇は加藤暁台門下の五老うちの一人。
著書に『法々華経』『をださか』『俄さくら』などがある。
現在の名古屋市熱田区の妙安寺、豊明市の二村山には句碑が残されている。

十五代啓潭は名古屋刑務所の最初の教誨師であり、我が国における近代の宗教教誨の始まりである。
啓潭は明治五年思楽塾を開く、塾は思楽学校をへて、同九年八重小学校となる。
これが現在名古屋市中区名城小学校のはじまりとされる

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