乗西寺 時報
2026年夏 第87号
つなぐ
更新日/2026年7月5日
本屋めぐり

本好きの私には本屋めぐりが散歩の目的になっている。ところが、最近街の本屋が一つ二つと無くなっていく。残念でさみしいかぎりだ。
私がよく通った「ちくさ正文館」、片端の「正文館本店」は無くなり、池下の「三洋堂」は遠い昔の思い出だ。いまはそれぞれビルやマンションになっている。いま定期的に行くのは今池の「ウニタ書店」だが、先日久しぶりに栄に出た。
以前はよく丸善に出かけたのだが、今回は地下街から行ける「ジュンク堂」と中日ビルの2階にある「文喫 栄」の本棚を回り、本を探していた。平日の午後、両店とも人はまばらで、改めて本屋の現実は厳しいと私自身感じたのである。
ただ、週刊誌や雑誌類が片隅に追いやられている一方、マンガやアニメそして絵本のコーナーが必ず設けられ、イチオシのまんがは誰にでもわかるように展示されていた。
江戸の客人
さて、私はどんな本を購入し、読んだか。『将軍の都の客人』が心に残っている。同じ浄土真宗の越後(新潟)の林泉寺(りんせんじ)の娘・常野(つねの)の人生を解き明かした歴史書。江戸時代がこんなにも身近に一人の女性や人間が描かれているのが興味深く、うれしくなった。
しかもアメリカの歴史研究者エイミー・スタンリーが書いている。常野と家族との間で頻繁に交わした手紙や記録を新潟県立文書館がウェブ上に載せた。それを著者が、パソコンのモニター越しにみつけ、それと邂逅した。残された手紙や記録を丹念に調べ、解読し再構成したのである。
1804(文化元)年、石神(いしがみ)村の林泉寺に生まれた常野は、3度の離縁をへて36歳で江戸へ出奔。
1839(天保10)年の秋、越後の実家の母のもとに送られた一通の書状に「さてわたくし ふといど(江戸)かんだ(神田)みな(皆)川町へまへ(参)り なんぎ(難儀)いたし候(私は思いがけず神田皆川町へ参りましたが、とても大変な思いをしました)」と書いている。

常野の生活
常野(つねの)は江戸で、どこに住みどんな仕事をし、衣食を含めて生活はどうだったのか。
「所持金も仕事のあてもなく、江戸に着いてしばらくのあいだ、、常野にできることはあまりなかった。自分がどこにいるのかを把握するのさえ苦労だった。」
最初に見つけた仕事は、旗本・松平友三郎の屋敷の雑用全般を勤める下女。当家の女性たち9名に仕える立場だった。
浄土真宗の宗風
その後は歌舞伎役者・5世岩井半四郎が所有する屋敷に奉公して自活する日々が続く・・・
「浄土真宗の寺の娘として育った常野は、浄土真宗という宗派は住職の娘をつれなく追い返したりしないと経験から知っていた。林泉寺がどんなに遠くにある小さな寺だとしても、聞いたことのある人はいるはずだ。今の自分が人からどう見えようと、それなりの振舞い方は心得ている。」と彼女は思っていた。

「常野の文には、流れるようなかな文字の筆づかいが見て取れる。言葉づかいも柔らかで女性的だ。」彼女は「数々の物事に腹を立てているが、怒りの矛先は具体的な人であり、抽象的な概念ではない」のだ。
江戸を生き抜いた人々の多くは、うまく転身していく必要があった。同郷の幼馴染・博輔(ひろすけ)との破局と越後への帰郷。南町奉行・遠山左衛門尉景元(名奉行「遠山の金さん」のモデル)に仕官がかなった博輔に請われて、江戸へ再び戻ることになった。
ペリー来航の年
一方、国内外の状況は揺れ動き、米提督ペリーの来航が迫っていた。
「1853年初頭、常野は病に倒れた。」何かしらの病を乗り越えてきた彼女も今回は違っていた。時間が過ぎても回復のきざしはなく、「博輔は医者を呼び、言われて薬も買ったが、効いている様子はない。」
「常野がこの世を去ったのは、ペリー行にとっては1853年5月13日金曜日にあたる。上海にとどまっており」艦隊が浦賀に投錨したのは7月8日だった。幕末目前の時代を半世紀生きた常野。前に進もうとする力が彼女を動かし続けた。『法名 釋智光妙順信女』従順の「順」は常野にとって意味深長なものを私は感じるのである。







